1. コラム

ダルビッシュとウッドフォードと橋下徹

このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです

 メジャーリーグ(MLB)各球団は2月下旬から春季キャンプに突入しました。史上最高の5170万ドル(約40億円)の入札金でテキサス・レンジャーズに鳴り物入りでポスティング移籍したダルビッシュ有投手も、初めてのメジャーでのキャンプをスタートさせています。今シーズンからメジャー移籍を果たしたのは、ダルビッシュ投手のほか、岩隈久志投手、和田毅投手、青木宣親選手の4名です。これで49名の日本人選手がメジャーでの活躍を目指して海を渡ったことになります。

 MLBで活躍するためには、野球選手としての優れたスキルだけでなく、慣れない異国での環境適応力も必要だとよく言われます。しかし、これは何もスポーツ選手に限った話ではなく、ビジネスパーソンにも同じことが言えるのではないかと思います。つまり、世界で活躍するためにはビジネスを遂行するための優れたスキルだけでなく、異国での異質な生活や思考に揉まれながら、それに飲み込まれることなく力を発揮する力強さも等しく重要だということです。

 日本は少子高齢化社会を迎え、国内市場は縮小して行く一方です。多くの企業では、生き残りをかけて海外マーケットの取り込みが至上命題となりつつあります。ユニクロや楽天のように、英語を社内公用語にする動きも見受けられるようになりました。スポーツ選手は自らの意志で海外に移籍しますが、ビジネスパーソンはその意志や希望に関わらず、近い将来異文化との遭遇を余儀なくされていると言えるかもしれません。

 その意味では、海を渡ってMLBで勝負している日本人選手は、日本のビジネスパーソンの未来の姿と言えるかもしれません。彼らが日夜遭遇している異文化体験は、とりもなおさず日本のビジネスパーソンが近い将来直面するであろう体験なのです。

 私がアメリカに拠点を移して活動するようになって11年半が経過しました。自分の人生の3分の1近くを異国で過ごしていた計算になります。日本人が異国の環境に身を置き勝負するためには、どんな覚悟しなければならないのか。いつもはスポーツビジネスという視点から直球を投げ込むことを目標にしていますが、今回は趣向を変えて日米比較文化論というチェンジアップを投げてみようと思います。

一神教的父性原理に飲み込まれていく日本

 日本は明治維新を機に開国に転じ、外国の文化を積極的に摂取しようと努めてきました。今では生活様式も大幅に西欧化し、欧米の生活・文化情報がメディアを通じてリアルタイムに届けられます。

 こうした環境に身を置く日本人にとって欧米社会は比較的親しみやすい社会であり、欧米のことを分かったつもりになってしまいがちです。しかし、そこで生活してみるとよく分かるのですが、メディアを介した情報摂取だけではその表面をなぞっただけで、幸か不幸か、本当の意味で西欧の思考に直面しているわけではありません。

 しかし、前述のような日本の社会環境の変化を踏まえた場合、資本主義の原理である拡大再生産を続けて行くならば、海外の市場に活路を見出していかなければならなくなるのは自明です。特に、インターネットが世に出現し、新興国の経済成長が始まったこの10年位でビジネス環境は大きく変化し、国境が意味をなさない「グローバル化」が進展しています。日本人は近い将来、本当の意味で西欧の思考に直面し、それと折り合いをつけていかないといけなくなる状況に身を置かざるを得なくなるでしょう。

 西欧社会とは一神教(キリスト教)的父性原理に支えられた社会です。一方、日本は母性原理に支えられた社会と言われます。前者は、各人が宗教に裏づけされた固有の「自我」を持ち、個人の責任において主義主張を行う「個の論理」に立脚する社会であるのに対し、後者は、自分が所属する集団の均衡・協調を重視し(=空気を読み)、自己主張はなるべく控える「場の論理」に立脚する社会です。

 私はここで両者の良し悪しを議論するつもりはありませんが、今後西欧の思考に直面せざるを得ない日本人としては、近い将来対峙することになる相手を知っておくことは必要だと思うのです。

 (なお、「父性原理」「母性原理」「個の論理」「場の論理」といった言葉は、日本でのユング派精神分析の第一人者である河合隼雄氏の著作から拝借した言葉です。氏は、欧米人の心理構造を「中心統合型モデル」、日本人のそれを「中空均衡型モデル」として比較・整理しています。興味がある方は、同氏の著作「中空構造日本の深層」「母性社会日本の病理」「日本人とアイデンティティ」などをご覧下さい)

強烈で、時として破壊的な父性原理

 私の理解では、宗教とは神と個人の契約であり、個人は神の教えを実現するエージェント(代理人)として生きて行くことになります。そのため、キリスト教の影響が強い欧米人は「個」として確立された明確な自我を持ち、神との契約に基づいて物事を合理的に判断し、個人の責任においてそれを主張します。

 一方、日本人は個として欧米人ほど明確で固有な自我は持たず、その価値判断は他者との関係性の中で規定される傾向が強いものです。宗教の聖典に当たるような明確な“教義”は持たず、他者との関係(=場)を重視し、その協調関係を長続きさせるためにバランスのよい判断・行動をとることを得意とします。

 そのため、父性原理に支えられた西欧人の主張は、日本人にとって時として非常に強烈に映ります。なぜなら、彼らの頭に「場の論理」というフィルターはあまりなく、個人の信念に基づいた主張を展開するからです。「場の論理」の強い日本では、個人間の決定的な対立を回避しながら何となく存在する「暗黙の了解」に向かって予定調和的に物事が進んでいく傾向があり、こうした環境に慣れている我々にとって、「場の論理」を気にしない欧米人の主張は時として破壊的にすら見えます。

 米国はキリスト教国家です(国民の約8割がキリスト教徒)。キリスト教の聖典は「聖書」ですから、信者(つまり、大多数のアメリカ国民)は聖書の内容・価値観に基づいて自らの行動・主張を考え、それを個人として実践していくことになります。身近に一神教的価値観と触れ合う機会の少ない大部分の日本人にとっては、神との契約に基づいた自己主張がどこまで強烈なのかはなかなか実感しづらい部分ではあるのですが、その一端を感じられる1つの事例をご紹介しましょう。

 読者の皆さんは米国ケンタッキー州にある「天地創造博物館」(Creation Museum)をご存知でしょうか? キリスト教徒も全員が全員、聖書に書かれている内容を一字一句信じているわけではありません。キリスト教の中にもその信仰により様々な宗派があるわけですが、その中には聖書に書かれていることが全て真実だとするキリスト教原理主義の方々もいます。そのキリスト教原理主義者が2007年に2700万ドルの巨費を投じて建設したのが件の博物館です。

 この博物館は、聖書の「創世記」に記述されていることを事実とし、神による天地創造説を広めるために作られた施設です。聖書によれば、世界は約6000年前に神が6日間のうちに造り出したとされており、例えば人間と恐竜が共存していた様子などが再現されています。多くの日本人が学校で習う進化論では、恐竜は6500万年前に絶滅したことになっているため、人間と恐竜が一緒に暮らしていたと聞くと違和感を覚えるかもしれません。

 宗教をベースにした主義主張とは、かようなまでに強烈なのです。ちょっと例が極端すぎたかもしれませんので、もう1つ例をご紹介します。

 卑近な例で恐縮ですが、私がアメリカに来て初めて遭遇したカルチャーショックは大学院での授業でした。授業が一通り終わると教授は必ず「何か質問は?」と生徒に聞くことになるのですが、そこでクラスメート達は躊躇することなく手を挙げ、質問を繰り出します。聞いていると、「そんなこと今聞くべき話ではないだろう」「それは授業の中で説明されていたごく初歩的なポイントだろう」と、日本人の感覚からすると“的外れ”なものも少なくないのですが、質問者はそんなことはお構いなしです。

 そこで気付いたのは、自分は無意識のうちに「この場で相応しい質問は何か?」を考えてしまっていたのです。これはまさに「場の論理」の強い日本人の思考の癖なのですが、欧米人は、自分の知りたいことを他人の目に関係なく聞いていきます。「場の論理」に縛られない欧米人との議論を予定調和的な態度で臨むと、発言を切り出す機会をつかめぬままに終わってしまうことがしばしばあります。

日本に暮らしていても安泰ではない?

 今後、日本人も世界に出て行く過程で西欧の父性的原理の洗礼を本格的に受けるケースが増えるでしょう。これは何も国際企業で働く一部のビジネスパーソンだけの特別な話ではありません。日本に住んでいても、キリスト教的父性原理に直面する機会が少しずつ増えてきているように思います。例えば、会社経営がその1つの例かもしれません。

 実は、株式会社という構造は一神教の構造に似ています。株式会社では、経営陣は会社の所有者たる株主の代理人として業務を執行することが求められます。経営陣は取締役会を組織し、各取締役は「株主の最大利益」という“教義”に従って株主のエージェントとして相互に独立・監視し合いながら合理的な判断を下すことが求められます。まさに「個の論理」に立脚した運営システムです。

 しかし、「場の論理」の強い日本では、株式会社は長い間「社員のもの」と考えられ、株式は系列会社同士で持ち合うなど、その経営は独自の進化を遂げていました。2007年のスティール・パートナーズによるブルドックソース株式公開買い付けなどは、こうした母性原理に立脚した日本的経営に対する、父性原理的株主重視経営からの牽制として捉えることができるでしょう。

 最近のオリンパスの不祥事も同様の文脈で捉えることができるかもしれません。同社では、過去20年に渡り不正経理(粉飾決算)が続けられていたわけですが、その実態を第三者委員会から「悪い意味でのサラリーマン根性の集大成」と揶揄されたのは記憶に新しいところです。不透明な会計処理を見て見ぬふりをしてきた歴代の経営陣とは対照的に、「不透明なM&Aにより株主に損害を与えた」として不祥事を表沙汰にしたのは、同社の英国人社長(当時)のマイケル・ウッドフォード氏でした。このスキャンダルにより同社は一時上場廃止の瀬戸際に立たされるなど、ウッドフォード氏の告発はまさに破壊的でした。

 父性的原理のもとで行動するリーダーの誕生が、その構成員に父性原理との接点を作り出すこともあるでしょう。大阪市の橋下徹市長による行政改革はその一例かもしれません。橋下市長は、28年間赤字続きの市営バスの運転手の給与を民間並みに引き下げたり、一定学力に達しない小中学生に留年制度などを提案しています。1つの目標を実現するために合理的なアクションプランを検討し、「場の論理」が乱れることを恐れずにその遂行を統合的に進める姿は、父性的リーダーのそれです。

 また、こうした父性原理の広がりが日本の若者の就職活動にも影響を与えているという指摘もあります。「バカの壁」などの著者として知られる養老孟司氏(解剖学者)は、「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」(池上彰著)の中で、次のように指摘しています。

 最近では、自分探しという言葉もありましたが、それは自分があるということが前提です。そんなものがあるのかってことですよ。(中略)今は一神教の世界の総合的な「自我」というものを概念として抱え込んで、若い人が苦労しているなと思いますね。そのおかげで、職業観は非常に変わったと思うんですね。これは日本の根幹を揺るがしたという気がします。要するに、職業は自分のためのものになった。本来は、世間を成り立たせるためのものだったわけですが。


「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」(池上彰著)

 このように、父性原理は海外に進出する一部の人たちだけでなく、日本に住んでいる普通の人々にとっても気づかないところで日常的に触れ合う機会が増えてきています。

本当に「敵を知り、己を知って」いるか?

 「孫子の兵法」の有名な一節に「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」があります。しかし、グローバル化が進展する世界的な潮流の中、我々日本人は本当に「己を知り」、「敵を知って」いるのでしょうか?

 個人的な体験で恐縮ですが、私が日本人としての特質について考えるようになったのは、アメリカに暮らすようになってからです。異質なものに触れることで、初めて自らの特質について考えるようになったのです。比較対象がなければ、特徴というものは本当に分からないものです。

 長い歴史の中で母性原理に裏づけされた暮らしが築かれてきた日本を、一朝一夕で一神教的父性原理に立脚した社会に変えていくことには無理がありますし、そのアプローチが正しいかどうかも分かりません。しかし、世界の8割の人々が一神教信者であり、グローバル化の進展とともに、好むと好まざるとにかかわらず日本が父性原理に飲み込まれていくのも避けがたい事実です。

 日本で育ち、教育を受けた人間がいきなり父性原理に立脚した西欧社会の中に飛び込んで行って、如才なく立ち居振る舞いすることは難しいでしょう(アメリカに10年以上住んでいる私が言うのだから、間違いありません)。闇雲に西欧的父性原理を真似ようとしても、それは上辺だけの“猿真似”に終わり、かえって両者の誤解を広げることにもなりかねません。

 欧米社会にあっても、行きすぎた父性原理の欠点が指摘されるようになってきており、母性による補完が求められているようです。やはり今大切なのは、両者の得意な点、苦手な点を理解し、お互いの不得手な部分をカバーする丁寧なコミュニケーションを続けることなのかもしれません。

 ダルビッシュ選手のキャンプインのニュースに触れながら、国際舞台で活躍する日本人像について思いを馳せた次第です。門外漢による比較文化論にお付き合い頂き、ありがとうございました。

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