1. コラム

“世界最強の労働組合”の伝説の活動家が死去

このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです

 日米のプロ野球界で年俸格差がどの程度あるかご存じでしょうか?

 今でこそ、日本のプロ野球界で年俸が1億円を超える選手は珍しくありません。2012年シーズンには支配下選手全体の10.7%に当たる78人が1億円プレーヤーとなり、球界最高年俸は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手の4億5000万円(推定)と言われています。しかし、平均年俸は意外に低く、3816万円でした。

 一方、米メジャーリーグ(MLB)の今シーズンの平均年俸は321万3479ドル(約2億5708万円)で、日本の約6.7倍に相当します。ちなみに、今季のメジャー最低保証年俸が48万ドル(約3840万円)ですから、日本球界の平均年俸とほぼ同額ということになります。最高年俸はニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲス選手で、3000万ドル(約24億円)でした。

 平均年俸を球団別に見てみると、MLBトップはロドリゲス選手が所属するヤンキースの618万6321ドル(約4億9491万円)で、フィラデルフィア・フィリーズが581万7964ドル(約4億6544万円)でこれに続きます。最下位はマネーボールでその名を馳せたオークランド・アスレチックスの184万5750ドル(約1億4766万円)でした(USA Today調べ)。

想像以上に大きい日米の年俸格差

 日本のトップは読売ジャイアンツの5894万円で、阪神タイガースが5229万円で続きます。ちなみに、最下位は横浜DeNAベイスターズで、2399万円でした。以下が、それをグラフにしたものですが、日米間に年俸額で大きな格差があるのが分かります。トップのヤンキースは、最下位のベイスターズの20倍以上に当たる平均年俸を選手に支払っています。

グラフ:2012年シーズンの球団平均年俸(単位:万円)

出所:USA Today、日本プロ野球選手会のデータを基に作成
注)MLB球団の数値は1ドル=80円で円換算した

 今でこそ、MLB選手は前述のように高額年俸を享受していますが、昔から選手の年俸が高かったわけではありません。年俸増額など、選手の権利獲得で大きな役割を果たしたのが、“世界最強の労働組合”とも言われるMLB選手会です。

 MLB選手会が結成されたのは今から60年近く前の1954年のことでした。当時の野球界には労使関係という概念はなく、選手待遇は今とは比べようもないくらいひどいものでした。

選手は球団の“奴隷”だった?

 その根源となっていたのが、統一契約書の中に含まれていた「保留条項」でした。これは、仮に球団と選手が契約更新で合意に達しなくとも、1年だけ従来と同じ契約内容で選手を保有できるというものでした。複数年契約もフリーエージェント(FA)制度もなかった当時、選手が一度契約を交わせば永久的に球団に拘束されるというものだったため、別名“奴隷条項”とも呼ばれていました。経営者はこの条項を盾に選手を意のままに操ることができたのです。年俸などの契約条件は一方的に球団が決定するものでした。

 球界の労使関係が近代化されたのは、1960年代に入ってから。きっかけは、全米鉄鋼労連の主任エコノミストとして活躍した辣腕組合家、マービン・ミラー氏をMLB選手会の事務局長として迎え入れたことでした。1966年のことです。

 ミラー氏は、著書『FAへの死闘―大リーガーたちの権利獲得闘争記』(ベースボールマガジン社)で、就任当時の野球界の状況を次のように回想しています。

 「選手には何の権利もなかった。盾突いた何人かは抹殺された。(中略)選手たちは単に組合に無知なだけでなく、組合に敵愾心を持っていた。組合が何かを知らなかっただけでなく、必要ないと考えていたのだ。選手たちは幼いころから<頼れるのは自分のパワーだけだ>といううたい文句に慣らされてきたからだ。コミッショナー(オーナーに指名され、給料をもらっている人物)が選手を代表し、選手は子供の遊戯をするだけで給料が払ってもらえる。野球はビジネスでなく、オーナーのための非営利行為だ――そんなバカげた話がまかり通っていたのだ。(中略)過密日程、悪条件、医療施設の不備、根性主義によるケガが後を絶たない」

 ミラー氏の就任当初、選手の平均年俸は1万9000ドルでした(1967年)。それが、彼がMLB選手会を指揮した最後の1982年には24万1497ドルにまで上昇しました。15年間で12.7倍になった計算です。そして、今年の平均年俸はその約169倍にまで達しています。

 一体、ミラー氏はどのような手腕で年俸上昇を実現していったのでしょうか?

 まずミラー氏が手がけたのは、選手年俸とは直接関係しない年金改革でした。当時、選手の多くは選手会の位置づけやメリットを理解していませんでした。そのため、選手共通の利害である年金を充実させることで、選手からの支持を取り付け、組合の存在意義を分かってもらおうと考えたのです。

 ミラー氏は、オーナー側と米プロスポーツ界初の労使交渉を行い、選手年金を拠出制から無拠出制に改めることに成功します(これ以来、MLBでは選手は年金について一銭の拠出金も支払っておらず、すべてはリーグ収益から年金基金に分担金が支払われる形になっています)。

 年金改革で選手の団結を高めたミラー氏は、次に調停制度(労使間の紛争を解決する手続き)の整備に着手しました。当時、調停制度とは名ばかりで、多くの事案はリーグ・球団側の利益代表者であるコミッショナーにより裁定が下されていました。これを、公平な第三者を仲裁人とする制度に変えたのです。そして、この第三者調停制度をテコに、“諸悪の根源”であった保留条項の解体に成功します。

選手生命を賭けた戦い

 アンディ・メッサースミスという勇敢な投手が、所属していたロサンゼルス・ドジャースとの契約交渉にてサインを拒否したまま、1975年シーズンをプレーしました。メッサースミス選手は当時29歳。前年リーグ最多の20勝をあげ、脂の乗り切っている時期でした。

 同選手は「契約にサインをしないまま1年プレーしたわけだから、保留条項の効力は及ばない。私は(どの球団とも自由に契約できる)フリーエージェントだ」と球団に真っ向勝負を挑んだのです。一切の生殺与奪権を握る球団に楯突くわけですから、その覚悟たるや相当のものだったに違いありません。まさに選手生命を賭けて行動を起こしたのです。

 それまで意のままに操っていた選手から、文字通り“飼い犬に手をかまれる”格好になった球団側…。当然、選手たちの主張を断固拒否し、調停で決せられることになりました。ここで、第三者調停を勝ち取っていた効果が発揮されます。調停人のピーター・サイツ氏は選手の主張を認め、選手が移籍の自由を手にするフリーエージェント権が確立されたのです。1976年のことでした。

 FA制度の導入は、選手年俸の高騰を招きました。従来まで一方的に球団に決められていた年俸交渉に競争原理が導入されたわけですから、当然の帰結と言えます。以下のグラフをご覧いただければ、FA制度導入を境に年俸が上昇に転じていることが分かります。

グラフ:MLB選手の平均年俸の推移(1965~2012年)

出所:Associated Press

 ただ、誤解のないように補足すると、FA制が不当に選手の年俸を釣り上げ、球団経営を窮地に陥れたわけではありません。後述するように、球団も儲けています。むしろ、球団経営者から搾取されない権利を得たと見る方が正しいでしょう。

 現在のように収益源が多角化していない当時の球団経営の柱はチケット収入とメディア(テレビ・ラジオ)収入でした。特に、1950年代以降のテレビの普及や、1960年代のMLBの第1次エクスパンション(1901年以降16チームによって営まれていたMLBに8チームが新規参入した)によって、スポーツをテレビで見る習慣が米国民の間に定着しました。FA制度が確立された1976年は、まさにメディア収入が爆発的に伸びていく過渡期でもあったのです。

 先ほどの平均年俸のグラフにメディア収入を重ねてみると面白いことが分かります。年俸の上昇は、ほぼメディア収入の上昇と軌を同じくしているのです。

グラフ:MLBの平均年俸とメディア収入の推移(1965~94年)

出所:Associated Press、The Economic History Association
注:1989年と1992年のメディア収入は全国放送テレビ放映権料のみ

 つまり、フリーエージェント制度は一方的に選手年俸を押し上げたわけではなく、球団収入の増大に応じたフェアな分け前を選手側に確保するシステムとして機能したのです。

先人の功績を忘れない

 年俸が上昇するきっかけとなったFA制度は、30年以上前の選手が選手生命を賭けて勝ち取った権利です。かつて球団にモノ扱いされていた選手が、経営者から引き出した「平等条約」の象徴なのです。

 労使交渉を通じて選手が手にしてきた権利は枚挙にいとまがありません。年俸の上昇は分かりやすい例ですが、年金などの福利厚生制度、苦情調停制度、各種手当の支払い、家族への配慮など微に入り細にわたります。経営者側と選手側が対等に向き合い、お互いにとってフェアな条件を徹底的に議論する労使交渉という場は、半世紀前の米国スポーツ界では考えられないことでした。

 ミラー氏は、前出の著書の中で次のように述べています。

 「七桁(=億円単位)の報酬、複数年契約、調停権もフリーエージェント権もあり、引退後には六桁(=千万円単位)の年金が待っているいま、選手には考えて欲しいことがある。そうした恩恵が、どのようにして自分たちのものになったのか。骨を折った選手たちの給料が、自分たちの2%に過ぎなかったこと。最低年俸が1990年のわずか6%だったこと。スーパースターですら、いまの最高年俸の3%以下だった」

 今や、MLB選手の年俸は八桁(=10億円単位)となり、最低年俸は当時の80倍(1967年の6000ドルから2012年の48万ドル)に跳ね上がりました。海を渡った多くの日本人選手もこの恩恵に浴しています。

 このように選手の権利のために戦い、米球界の近代化に寄与したミラー氏が先月27日、ニューヨークの自宅で死去されました。私もミラー氏には一度だけですがお会いしたことがあります。もう今から10年も前の話です。事務局長時代の労使交渉の経緯についてお話をうかがったのですが、30年も前の話を昨日起こったことのように正確に話されたのには舌を巻きました。

 MLBの歴史に名を刻んだ人物としては、予告ホームランを行ったベーブ・ルースやワールドシリーズで伝説的なファインプレーを披露したウィリー・メイズ、人種の壁を破ったジャッキー・ロビンソンなどの選手の名前をいち早く思い浮かべるかもしれません。しかし、このミラー氏も間違いなくMLBの歴史を変えた人物として後世に記憶されることになるでしょう。

立場によって評価は分かれるが、実績は変わらない

 ミラー氏への評価は立場によって分かれることも事実です。組合家としての戦闘的なアプローチは、「百万長者と億万長者の喧嘩」と揶揄され、ワールドシリーズが中止となった1994年のストライキをはじめ、多くの労働争議を米プロスポーツ界にもたらしました(選手側に一方的にその責任があるわけではありませんが)。

 米国の往年の野球ファン(特にスモールマーケット球団のファン)の中には、「選手の年俸が高騰し、ベースボールがビジネスになったおかげで、貧乏チームが勝てなくなった」とその責をミラー氏に求めようとする者もいます。

 しかし、いずれにしてもミラー氏が米野球界の傑出したリーダーであり、労使間に緊張感ある協調関係を築き上げ、現在の史上最高とも言える繁栄の礎を築いたという実績は誰もが認めるところです。現MLB選手会事務局長のマイケル・ウェイナー氏は、哀悼の意を表し、次のような声明を発表しました。

 「かつての、現在の、そして未来の全てのメジャーリーガーはミラー氏に感謝するでしょう。彼の力は野球という枠には収まりませんでした。」

 マービン・ミラーさん、安らかにお眠りください。

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